今朝はすっかり秋です。
最近の自分のブログはとても狭い自分の過去を思い出しながら、何に苦しんでいるのかを探すような内容が多くて、自分でも何を綴っているのか、伝えたいのか、よく理解できません。
ただ、書き続けることで、何かしら少しでも楽になれるのならと思い、今日もブログ画面を立ち上げました。
今日は何故にこんなに音楽に執着し、心から求めてしまうのか、それによって引き起こっている現実について触れさせていただきます。
結果から申しますと私に対して、音楽は、求めると不幸を運んでくる気がします。
心底楽しんで、求めて、深いところに行けば行くほどに、それと同等の不幸が訪れます。
原因としては音楽に対して譲れない部分にたどり着いたときの私の頑固なあの感じ。
あの感じとは、言葉にできない絶対イヤという重い気持ち。
恐らく自分の作品が自分自身だから、譲ってしまうと自分が壊れてしまうのではという恐怖を感じているからかもしれません。
私は時々音楽の中に入ってしまうことがあります。
バレエを踊ったときにもそういった経験をしました。
主にライブ中であったり、アレンジをしているときに起こります。
まだ小さかった息子や飼っていた犬がそれを邪魔することもしばしばありましたが、そんな時は恐ろしい勢いで怒鳴っていた記憶があります。
生まれてきた作品がこの世に放たれて、その後どう皆様に聴いていただけているのかは分からないですが、聞いて欲しいと発表しても、聞いてもらえる環境にない今は苦しいです。
私達の親世代は日常的に音楽を楽しむことが難しかった世代かもしれません。
その代わり、レコード、ラジオなどから流れる音楽に心底憧れた、のめり込んだという話も聞きます。
今は音楽がうじゃうじゃしていて、きちんと聞きたい音楽を選んで聴かないと、自分の中のセオリーが危うくなりそうです。
昔はジャンルなんて、そう思っていました。
でも、今こそ、ジャンル付けをして欲しいと思います。
中には「ジャンルを超えた」などと宣言している方も居ると思います(過去の私もです)。
でもやっぱりジャンルとは根源であるからして、うじゃうじゃをなんとかするためにも分けていかなければならないかもしれないですね。
とにかく、今は心が揺らされるものに触れることを控えているので、気持ち的には大変楽です。
でも物凄い寂しいです。
私だけではないと思いますが、何も感じないで生きることは不可能なのではないでしょうか。
そういった意味で、自分では生み出すことの出来ない、アートや映画、建築に今はとっても興味を持って静かに感動しています。
音楽で繋がっているFacebookやTwitterのお友達がオススメと謳っている映画はチェックしています。間違いがありません。
あとは、個人的趣味の映像の奥に潜む、監督のいたずらを探すことに時間を割いています。
音楽を愛した過去のミュージシャン、歌手の中にも不幸と共存していた人は沢山いるのかもしれないと今朝読んだマリア・カラスの記事に思いました。
自分以外の聴く側の心を揺さぶるのは難しい。
例えば普通が一番大切だと当たり障りのない生活を望む人には、私の書く世界観は必要ないかもしれないし、同じような境遇に居たとしても、必要以上に自分を痛めつけて生きてしまった人間の心の底の声を聞いたならば、必ず、何かしらの痛みを共感するはずなのです。
イコール音楽の趣味ってことになるんでしょうけど。
私がニール・ヤングを愛しているのは、テクニックの向かうベクトルが外ではなく、彼の中へ入っていくのを見たからです。
そういう音楽のやり方をしている人は他にもいて、もちろん大好きです。
ですので、多分自分もそうなんでしょう。
内に入ってくる音楽に溺れているのでしょう。
息継ぎが大変です。
早く楽になりたい。
来週はEriと同じ20周年を迎える「Jam For Joy」に参加してきます。
私は歌にはあんまり自信が無いのですが、2曲メインでコーラスで数曲登場いたしますので、プロの贅沢な演奏を是非聞きにおいでくださいませ。
全員楽しく明るい方たちですので、最高に幸せな気分になれちゃうよっ!
Shinjuku Reny
ただ、書き続けることで、何かしら少しでも楽になれるのならと思い、今日もブログ画面を立ち上げました。
今日は何故にこんなに音楽に執着し、心から求めてしまうのか、それによって引き起こっている現実について触れさせていただきます。
結果から申しますと私に対して、音楽は、求めると不幸を運んでくる気がします。
心底楽しんで、求めて、深いところに行けば行くほどに、それと同等の不幸が訪れます。
原因としては音楽に対して譲れない部分にたどり着いたときの私の頑固なあの感じ。
あの感じとは、言葉にできない絶対イヤという重い気持ち。
恐らく自分の作品が自分自身だから、譲ってしまうと自分が壊れてしまうのではという恐怖を感じているからかもしれません。
私は時々音楽の中に入ってしまうことがあります。
バレエを踊ったときにもそういった経験をしました。
主にライブ中であったり、アレンジをしているときに起こります。
まだ小さかった息子や飼っていた犬がそれを邪魔することもしばしばありましたが、そんな時は恐ろしい勢いで怒鳴っていた記憶があります。
生まれてきた作品がこの世に放たれて、その後どう皆様に聴いていただけているのかは分からないですが、聞いて欲しいと発表しても、聞いてもらえる環境にない今は苦しいです。
私達の親世代は日常的に音楽を楽しむことが難しかった世代かもしれません。
その代わり、レコード、ラジオなどから流れる音楽に心底憧れた、のめり込んだという話も聞きます。
今は音楽がうじゃうじゃしていて、きちんと聞きたい音楽を選んで聴かないと、自分の中のセオリーが危うくなりそうです。
昔はジャンルなんて、そう思っていました。
でも、今こそ、ジャンル付けをして欲しいと思います。
中には「ジャンルを超えた」などと宣言している方も居ると思います(過去の私もです)。
でもやっぱりジャンルとは根源であるからして、うじゃうじゃをなんとかするためにも分けていかなければならないかもしれないですね。
とにかく、今は心が揺らされるものに触れることを控えているので、気持ち的には大変楽です。
でも物凄い寂しいです。
私だけではないと思いますが、何も感じないで生きることは不可能なのではないでしょうか。
そういった意味で、自分では生み出すことの出来ない、アートや映画、建築に今はとっても興味を持って静かに感動しています。
音楽で繋がっているFacebookやTwitterのお友達がオススメと謳っている映画はチェックしています。間違いがありません。
あとは、個人的趣味の映像の奥に潜む、監督のいたずらを探すことに時間を割いています。
音楽を愛した過去のミュージシャン、歌手の中にも不幸と共存していた人は沢山いるのかもしれないと今朝読んだマリア・カラスの記事に思いました。
自分以外の聴く側の心を揺さぶるのは難しい。
例えば普通が一番大切だと当たり障りのない生活を望む人には、私の書く世界観は必要ないかもしれないし、同じような境遇に居たとしても、必要以上に自分を痛めつけて生きてしまった人間の心の底の声を聞いたならば、必ず、何かしらの痛みを共感するはずなのです。
イコール音楽の趣味ってことになるんでしょうけど。
私がニール・ヤングを愛しているのは、テクニックの向かうベクトルが外ではなく、彼の中へ入っていくのを見たからです。
そういう音楽のやり方をしている人は他にもいて、もちろん大好きです。
ですので、多分自分もそうなんでしょう。
内に入ってくる音楽に溺れているのでしょう。
息継ぎが大変です。
早く楽になりたい。
来週はEriと同じ20周年を迎える「Jam For Joy」に参加してきます。
私は歌にはあんまり自信が無いのですが、2曲メインでコーラスで数曲登場いたしますので、プロの贅沢な演奏を是非聞きにおいでくださいませ。
全員楽しく明るい方たちですので、最高に幸せな気分になれちゃうよっ!
Shinjuku Reny
それではまた!!
Eri
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