私を変えた3つのこと。
昨年暮れ辺りから焦り、憤りを感じていた私は、ずっと体調が悪かったのです。昨年1年かけて作り上げた作品を沢山の音楽好きに聴いてもらいたいと思う気持ちが先行しすぎて(いつもそう)、がっかりしていたのです。そう、つまりは期待し過ぎたということです。
1月末、体の一部に火がついたような激痛が走り、息子が早急に救急車を呼んでくれた。もし私一人だったら、薬で散らして我慢していたかもしれないけれど、この痛みは昨年10月にも経験し、その治療の痛さを知っていたから、「病院には行かない!」と泣き叫びました。案の定、救急車の中で痛み止めが効いてきました。それでも私は泣いていました。なんとも言えないなさけない気持ちからです。
病院について、一通り検査したあと、「入院です。すぐに来られるご家族は?」と聞かれ、「息子しかいません。」と言うと、「明日手術だから、手術に立ち会える成人はいますか?」、、、絶句。
私が痛みのせいで叫ぶので、無理やり個室へ運ばれ、「個室だから、誰か成人の方と連絡をとってください。個室だから、電話もネットも自由です。」と言われたものの、いろんなショックからすぐに誰とは浮かびませんでした。もちろん息子にも頼みましたが、仕事を休めないと。決して薄情な訳ではなく、休めない理由を一番知っていたので、携帯に登録している話せる仲間に次々メールを飛ばしました。点滴をされ、翌日の手術の為の質問、consent formへのサイン(10回くらい自分の名前を書きました)、バタバタと時間が過ぎ、明け方5時には薬が切れ、またもやあの激痛が襲ってきました。0時に痛み止めを飲んでいたので、次の痛み止めの時間は朝6時。しかし痛みに耐えられずナースコールで痛みを訴えたところ、担当医と相談の上、少し早くポルタレンを処方、処置してくださいました。物凄い効くんです。30分くらいで痛みから少し開放されました。
朝になると、連絡した友人から次々連絡が入り、立会いをしてくれる仲間が承諾してくれ、一安心。しかし大海原に放り出されたような、いつ岸にたどり着くか分からない不安を感じ、絶望にも似た身体の不調、痛み。3度目の痛み止めも6時間は待ちませんでした。手術の時間が12時半と決まり、11時半まで2回2種類の痛み止めで手術に挑みました。手術自体は全身麻酔なので、全く覚えていません。ただ、その後の傷口の治療が、病気による痛みを上回る激痛でした。既に24時間以上痛みに耐えていた私は、心底疲れきっていました。
そこで思い出したのは過去に病気で入院していた、または虹の橋を渡った母、友人のことでした。入院自体、出産時以外では初めてでしたので、まさかこんなにネガティヴな気分になるとは思ってもいず、母が末期の胃がんで入院していたときは私が毎日昼、夜と2回面会に行っていて、私が行けない日は母の友人が交代してくれていたので、母が残した手帳にも「えりが毎日来てくれる。心強い。」と記されていた通り、治療や検査はきついけど、そんな話ができる相手が居ると居ないとでは雲泥の差であることを痛感しましたし、母も嬉しかったようです。駆けつけてくれた友人には痛み泣く姿や、麻酔でヘロヘロになった状態も見られてしまいましたが、居てくれるだけで本当に嬉しく、心配した友人は朝9時から夜の7時間で居てくださいました。
痛みの中で私はこの痛みから解放されたら何をしようと考えることで、様々な激痛に耐えました。希望こそが生きる糧であることに気づいたのです。
現実希望が何処にあるかわかりませんが、やりたいことは沢山あります。
それをやるために生きるというのがこの年齢で嘘偽りない気持ちだと思います。
それと、お金に関して、これもまた友人が居なければどうにもなりませんでした。大変な手術でしたし、個室でしたので、4泊5日とは思えない金額でした。親の居ない私に友人は惜しげもなく、恐らくご自身も大変なのに、そういう心配をさせないようにとお心遣いをくださいました。
これから私は、私にそうしてくださったように、相手にそういうことができる人間になろうと思います。
音楽で人を救うって言うのも聞こえ素敵なことだけれど、大切な友人が痛がっていたら、飛んで行って背中をさするような人になりたいです。
今は28日の自分のUSTREAMの歌のための準備をしていますが、そうやって元気を取り戻すことも友人たちに対しての恩返しと考え、できる事から少しずつ復活していこうと思っています。
身体は資本です。
なんか変だなって思ったら、どうぞすぐ係りつけのお医者様へGOです。
自然治癒ができるならそれも良いでしょう。でも知識のない治療は危険です。
結局最後は病院に救急車になるのなら、最初から病院に行くべきだと学びました。
今は元気になってきていますので、何卒、ご安心ください。
再発しやすい病気の為、慎重に体力づくりをしていきます。
私を変えた3つのこと。
① 極限の痛みの中で希望こそが生きる糧だと気づいたこと。
② 家族が居ないと嘆く前に大切な友人に甘えさせていただくことに罪悪感をもたないこと。
③ 落ち込んだら笑う。
この3つです。
難しいけれど、やってみます!
それではまた。
Eri
1月末、体の一部に火がついたような激痛が走り、息子が早急に救急車を呼んでくれた。もし私一人だったら、薬で散らして我慢していたかもしれないけれど、この痛みは昨年10月にも経験し、その治療の痛さを知っていたから、「病院には行かない!」と泣き叫びました。案の定、救急車の中で痛み止めが効いてきました。それでも私は泣いていました。なんとも言えないなさけない気持ちからです。
病院について、一通り検査したあと、「入院です。すぐに来られるご家族は?」と聞かれ、「息子しかいません。」と言うと、「明日手術だから、手術に立ち会える成人はいますか?」、、、絶句。
私が痛みのせいで叫ぶので、無理やり個室へ運ばれ、「個室だから、誰か成人の方と連絡をとってください。個室だから、電話もネットも自由です。」と言われたものの、いろんなショックからすぐに誰とは浮かびませんでした。もちろん息子にも頼みましたが、仕事を休めないと。決して薄情な訳ではなく、休めない理由を一番知っていたので、携帯に登録している話せる仲間に次々メールを飛ばしました。点滴をされ、翌日の手術の為の質問、consent formへのサイン(10回くらい自分の名前を書きました)、バタバタと時間が過ぎ、明け方5時には薬が切れ、またもやあの激痛が襲ってきました。0時に痛み止めを飲んでいたので、次の痛み止めの時間は朝6時。しかし痛みに耐えられずナースコールで痛みを訴えたところ、担当医と相談の上、少し早くポルタレンを処方、処置してくださいました。物凄い効くんです。30分くらいで痛みから少し開放されました。
朝になると、連絡した友人から次々連絡が入り、立会いをしてくれる仲間が承諾してくれ、一安心。しかし大海原に放り出されたような、いつ岸にたどり着くか分からない不安を感じ、絶望にも似た身体の不調、痛み。3度目の痛み止めも6時間は待ちませんでした。手術の時間が12時半と決まり、11時半まで2回2種類の痛み止めで手術に挑みました。手術自体は全身麻酔なので、全く覚えていません。ただ、その後の傷口の治療が、病気による痛みを上回る激痛でした。既に24時間以上痛みに耐えていた私は、心底疲れきっていました。
そこで思い出したのは過去に病気で入院していた、または虹の橋を渡った母、友人のことでした。入院自体、出産時以外では初めてでしたので、まさかこんなにネガティヴな気分になるとは思ってもいず、母が末期の胃がんで入院していたときは私が毎日昼、夜と2回面会に行っていて、私が行けない日は母の友人が交代してくれていたので、母が残した手帳にも「えりが毎日来てくれる。心強い。」と記されていた通り、治療や検査はきついけど、そんな話ができる相手が居ると居ないとでは雲泥の差であることを痛感しましたし、母も嬉しかったようです。駆けつけてくれた友人には痛み泣く姿や、麻酔でヘロヘロになった状態も見られてしまいましたが、居てくれるだけで本当に嬉しく、心配した友人は朝9時から夜の7時間で居てくださいました。
痛みの中で私はこの痛みから解放されたら何をしようと考えることで、様々な激痛に耐えました。希望こそが生きる糧であることに気づいたのです。
現実希望が何処にあるかわかりませんが、やりたいことは沢山あります。
それをやるために生きるというのがこの年齢で嘘偽りない気持ちだと思います。
それと、お金に関して、これもまた友人が居なければどうにもなりませんでした。大変な手術でしたし、個室でしたので、4泊5日とは思えない金額でした。親の居ない私に友人は惜しげもなく、恐らくご自身も大変なのに、そういう心配をさせないようにとお心遣いをくださいました。
これから私は、私にそうしてくださったように、相手にそういうことができる人間になろうと思います。
音楽で人を救うって言うのも聞こえ素敵なことだけれど、大切な友人が痛がっていたら、飛んで行って背中をさするような人になりたいです。
今は28日の自分のUSTREAMの歌のための準備をしていますが、そうやって元気を取り戻すことも友人たちに対しての恩返しと考え、できる事から少しずつ復活していこうと思っています。
身体は資本です。
なんか変だなって思ったら、どうぞすぐ係りつけのお医者様へGOです。
自然治癒ができるならそれも良いでしょう。でも知識のない治療は危険です。
結局最後は病院に救急車になるのなら、最初から病院に行くべきだと学びました。
今は元気になってきていますので、何卒、ご安心ください。
再発しやすい病気の為、慎重に体力づくりをしていきます。
私を変えた3つのこと。
① 極限の痛みの中で希望こそが生きる糧だと気づいたこと。
② 家族が居ないと嘆く前に大切な友人に甘えさせていただくことに罪悪感をもたないこと。
③ 落ち込んだら笑う。
この3つです。
難しいけれど、やってみます!
それではまた。
Eri
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