アイドルだったことにあまり触れたくない理由。

80年代の芸能界はアイドルがいっぱいいました。日本の歴史を辿っても、バブルを控えワクワクが止まらない時代だったとも思います。70年代のアイドルは完全にエンターテイナーでした。歌も唄い、写真集も出し、テレビでコントもやり、映画もやり、舞台、コンサートもこなすという、もし売れっ子ならピンクレディが言うように睡眠時間1日平均2時間というのも頷けます。
それを淡々とこなしていたのが山口百恵さんだったように思います(彼女はアイドルだと思っています)。
で、その百恵ちゃんの引退後、流星のごとく現れた松田聖子さん。ポスト百恵ちゃんとか言われてましたが、演技以外では彼女は百恵ちゃんを遥かに超える年代の幅を超えたスターになりましたよね。まだまだ70年代の芸能界の流れを引きずっていたアイドルがするべきことは残っていましたが、まぁ当時私はテレビをあまり見ていなかったので、どういう番組にどういう風にというのは聖子ちゃんがもう既にスターになって3年ほど経ってからでした。百恵ちゃんほど映画やドラマに出ていないだけで、それを補うかのようにレコードを山ほど出し、その全てがヒットしていました。これは個人的な意見ですけれど、松田聖子さんこそが、現在に至るまで変わらずアイドルNO.1と思います。
そのあとデビューしたアイドルの皆様もこぞって仰りますが、彼女には勝てないと思われていたようです。

この話をすると長くなりますので、ここまでを前提として考えたとき、私はやはりアイドルになるべきではなかったと思っています。歌手になりたいという気持ちはとても強くありましたが、横いちでポーズ決めて、男の子に好かれる自信が全くなかったため、歌番組以外では常にふざけていましたし、レコーディング以外に行くのが億劫でしょうが無かったんです。
それはデビュー前からのことで、じゃあなんでオーディションなんか受けるんだという話になりますが、私はバレエを辞めてとても落ち込んでいました。親の離婚による経済的問題でやめていますので、早く次に夢中になれることを探していたんです。兄が応募した西城秀樹さんのオーディションで、札幌から東京に無料で行けることに味をしめたため、沢山オーディションを受けて、何度も東京に行きました。高校2年の進路相談で、私は保母さんになることを決めていたので、専門学校の資料をかき集めていた頃デビューの話が持ち上がりました。もちろん芸能人になるつもりなど、もうとっくにありませんでした。でも母が(この辺の話も長いので割愛します)「芸能界に入ってくれなかったらお母さん死ぬわ」とか「お母さん、、、ガンなの。だからひと目芸能人になったお前を見せて」とか。2年間の約束で私はデビューに同意しました。普通逆ですよね(笑)
その後、よくよく話を聞くと、要するに私芸能界に売られたんだと思います。所属事務所の部長は何でも教えてくれる方でした。「えりのママに30万バーンスしたから、給料から天引きしますね」と言われ、ホームシックになって母に電話をかけたら名前を間違えられ、なんか昭和初期みたいだと思った記憶が今でも忘れられません。

でも、どんな経緯であれ一度アイドルで2年頑張ると決めた私は一生懸命でした。ただ芸能界は特殊で頑張れば評価される場所ではありませんでした。病気で仕事に穴を開けたことなど一度もありません。40度の熱があったら速攻救急で点滴してそのまま現場ということが何度もありました。芸能人のみなさんがそうだったと思います。が、体が弱い私は精神も参ってしまいました。テレビ収録やラジオ収録の時のピンとはりつめた沈黙が恐怖になってしまったのです。一度乗った飛行機から簡単には降りられない恐怖に似ています。

アイドル後半、「未来忍者」という映画に出ました。丁度同時期に「嘆きのプリマドンナ」のレコーディングをしていました。月に一度ライブもやっていました。この3つの仕事だけは緊張もせず楽しんでやれました。なぜならそこには欲の坩堝が存在していなかったからだと思います。

分かっていただけるとは思いませんが、ただ、本当にバラドルにならなくて良かった~~というのが本音です。

その後シンガーソングライターとして再デビューできた時、最初からこの場所を目指せなかったのは、mentorがいなかったせいだと思います。母が家計のために女の子ができることはアイドルだと導いてくれちゃったせいだと一度納得しようと思います。
じゃないと、森下恵理の話をするたびに不安な気持ちになる状態を脱することができないから。

私はこれからもあの欲の坩堝に戻らない、強い心で、シンガーソングライターを続けていきます。
だって才能あるんですもの、うふふふふ。

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