私を奮起させてくれた存在を失うということ。

最愛猫の片割れを亡くしてから、どれくらい経ったんでしょう。
一向に心からの笑いが訪れません。
笑った後は必ず深い痛みが戻ってきます。
片割れのとむもそうなのでしょうか。
私たちはまるで一心同体のように悲しみを分かち合っています。
私はとむを、とむは私を「あなたの方が辛いでしょ」とでも言うように。
今まではこんな時は必ず曲を作りました。
そうすることで癒されていたのです。
でも、今は、音楽が私を癒してくれることはありません。
音楽をやることで、猫たちにいっぱいさびしい思いをさせたからだと思います。
しかも近年の曲はほぼ彼らが居たから作れた曲ばかり。
新しい曲は必須かもしれません。

でもなぜ立ち直らなきゃいけないのかという思いも断ち切れません。
2003年、これでもかというほどの悲劇に見まわれ、彼らが家に来てくれたことで、なんとかもう一度だけ頑張ろうと奮起したのです。
頑張りすぎてうつ病になるほどに。
愛しすぎて、頼りすぎて、この日が来ることを考えなかったのかもしれません。
結局寂しいままの私に戻るのかもしれないという恐怖さえあります。
2匹より先に逝きたかった。
身勝手で独りよがりな考えです。
でも人はみな、出来れば悲しい思いはしたくは無いはずです。
人生は辛いことも沢山あります。
私の場合、多すぎて、支えるだけの愛情をもらってなくて、今に至っていると思っていたけれど、失って初めて、こんなに愛されていたんだって思います。
これでとむが居なくなったらと考えたくありません。
限度ってあると思いませんか?
もちろん、きちんと看取ります。
くぬにと同じように大切に送り出すつもりです。
そのあと私はどこへ向かえばいいのでしょうか。
今は見当すらつきません。
恐らく、それが見えたらいわゆるペットロスから立ち直れるのでしょうけれど。
そもそもペットロスどころか絶望してます。
くぬにはきっと喜ばないでしょう。
しかしそのくらい悲しいのです。
これは一度ちゃんと認めないと、飲み込むことが出来ずに何年も苦しむことになります。
だから、びっくりするほど落ち込んでいます。
愛犬を失った時は周りに末期がんだと思われるほど痩せてしまいました。
犬の場合、愛情表現がストレートで、しかも東京上京という寂しさを吹き飛ばしてくれた存在だっただけに息も出来ませんでした。

猫はちょっと違って、ぬくもりなんです。
失ったぬくもりが辛いんです。
社会に出て気を張って、家に帰ってくぬにを抱きしめると、全部忘れてしまいました。
とむやくぬにに見つめられると魔法にかかるんです。
だから今とむは大変です。
まだまだくぬにを思い出には出来ません。
しません。
とむが居る限り、しないつもりです。
そして、伴侶動物はとむが最後になると思います。
そのあとは本当に一人になろうと覚悟しています。
その時どんなかは、、、、正直想像もつきませんけれど。。。

生きるのは本当にしんどいです。
そして、プレシャスです。
夢か幻か、、、過ぎ行く日々に飲み込まれそうです。
そんな時は飲み込まれてしまっても良いと自分に言い聞かせ、このトンネルの先にもし光があれば、そこを目指せばいいのです。

※この記事は2017年12月12日に打ちました。

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